パラダイムの町に、ある噂が広まっている。
飲むと幸福が訪れるといういかがわしい水の話だ。私はその調査に乗り出したのだが…。
「こんな何の変哲もない水が幸福を?」
論より証拠と飲むわけにはいかない。危険な代物であるかもしれないし、サンプルを失うわけにもいかない。
遡ること4日前、ある男がロジャー邸に来たことから始まる。齢30代前半に見えるその男は、投資、仕事、恋愛すべてがうまくいっていたのだ。
彼の友人知人すべてがある水を飲むだけで幸福を手にしている。
「お聞きしたい、その水はどこで入手したんですか?」
地下街の一角にある雑貨店で販売しているらしく、若者や富裕層の間でもっぱら噂になっているらしい。
ロジャーは雑貨店に足を運ぶことにした。薄暗い地下街の階段を一歩ずつ降りる。
ところどころに路上生活者がシートの上で寝ていて、踏まないように留意して道を歩く。
たどり着いた雑貨店では、看板にOPENと汚い字で書きなぐってあった。入るのに勇気がいる様相だが、扉を開ける。
入ってみると、店の大きさは個人店らしくやや狭い。猫を膝に乗せ、なでながらまどろむ老婆がいた。
「どうもマダム。私はロジャー・スミスと申します。この店で売っている水に興味がありまして。」
老婆は無言で、棚から水の入った小瓶を用意する。色は無色透明で、何の変哲もない液体に見える。
料金は100ドル相当といわれ、よくあるぼったくりのマルチ商法だろうと金貨で払う。
店から出ると雑貨店の向かい通りに人だかりができていて、小奇麗な身なりをしている紳士が聴衆を集めて演説している。
「我々の世界に抑圧はもう必要ない!力なきものにこそ栄光を!」
どこぞの新興宗教だろうと立ち去ろうとしたが、演説者と目が合ってしまう。
「そこのジェントルマン、君にとって真の幸福とは何かね?」
「残念だがその手の話に乗るつもりはない。急いでいるので失礼。」
この地下街では一般では通用しないしきたりがあるようだ。
足早にその場を去るロジャー。演説の残響が消えるところまで来ると、ほっと胸をなでおろす。
ロジャー邸の鑑定室で例の液体を様々な観点から検証することにした。
酸性でもアルカリ性でもなく、薬物反応もない。それどころか質量もなんの変わりもなく、H2O、つまり水そのものなのだ。
「こんなものを100ドルで?世も末といったところか。」
水の解析を終えたロジャーは黒塗りの高級車に乗り込み、ある薬局に向かう。顔見知りの医師がいるその場所で、ロジャーは会話を紡ぐ。
「水に溶け込んだもので見破れないものは?」
薬剤師は、水に溶け込めばどんな物質でも必ず反応が出ると語る。ではこの液体はいったい何なのだろう。
「飲んだ人間が幸福になると噂なのですが、スピリチュアル的なものでしょうか?」
私はその分野にはさっぱりだといい首を横に振る。どうやらもう少し下調べが必要だ。
ロジャーはシティで著名な占い師に依頼し、水の素性を調べることにした。
「驚いた、小綺麗な瓶に入っただけのただの水ですな」
「小綺麗な瓶に入っただけの?」
ロジャーは、今回の依頼内容は自分が担当でなくてもよかったのではないか、と思い始めていた。あまりにも普通の水すぎてモチベーションが低下する。
ロジャー邸に帰ったあと、無線で地下街に詳しい人物とアポイントを取る。
明日、ある集会があるらしい。あの店の向かいで起きていた演説に深い造詣があるという。
「明日真実が明らかになるはずだ。しかしこの水を飲むことはいいことではない。」
ドロシーが帰宅する際、ドアの音がしたのを聞いたロジャーは一人思案する。この水がどんな力を持っていようと、手を出してはいけない。幸福とは自分の手でつかむものなのだ。
状況を反芻した後、明日に備えて眠ることにしたロジャー。
明朝、ドロシーのやさしさのないピアノの爆音で目が覚めたロジャーは、頭をわしわし掻きながら目覚める。
「ドロシー、ピアノの音ではない目覚めはいつ私に訪れるのだ!?」
「あらロジャー、あなたが寝坊しないようにあえてやってるのよ。」
「より悪趣味ではないか…」
ノーマンが用意してくれたオートミールをスプーンで口に運びながら思案する。
この町では度々起きる宗教騒動だが、今回のケースはより複雑だ。ある指導者によってあの地域が統轄されている。
地下街の空気そのものに原因があると踏んだロジャーは車を走らせる。
「澄んだまやかしの水で、この世界の真実を濁らせてはいけない。」
ロジャーは地下街の集会場へ向かう。
Dark Water②へ続く